ごじゃはげ

日記と雑記とみじかい創作

【創作】瑠璃鐫花娘子(ルリチュウレンジ)

 アザレアの葉がやられてしまうから、幼虫を見つけたらぜったい駆除してちょうだいと母さんは言うけれど、ぼくははあいと返事をしながらその幼虫をそっとつまみあげて小箱にしまう。小箱のなかではもうすでに、なん十匹もの幼虫が不自由そうに、棒状の小さなからだをくねらせている。母さんが「見るのもいや」「おぞましい」「ぞっとする」と言って近寄りたがらないその幼虫の、みどり色のからだには胡椒をふりかけたような黒い斑点がびっしりついていて、だから色合いだけを見たら何かの料理みたいに見えなくもない。見えなくもないはずだけれど、見えないのはぼくがこれを虫だと知っているからだろうか。頭部のぷっくりと黄色いふくらみなんか、見れば見るほど、まるで玉子の黄身みたいだというのに。
 目についた幼虫をすっかりとってしまったあと、その足でぼくは魔女の家へ行く。魔女は団地の一階に住んでいる。団地の一階、B棟102号室。ぼくの家とはちがう音で鳴る呼び鈴を押しても中から返事はない。返事がないときは入ってもいい合図だから、ぼくは重たいドアをうんしょと開ける。団地のドアは重たくて、ぼくはいつも両手でないと開けられない。桃色ビーズのじゃらじゃら暖簾の向こうから、魔女がにゅっと顔を出す。まず鼻先が出てくる。魔女の鼻は大きくて高い。横から見るとアイロンに似ている。それからぎょろんとした目玉。ひっつめた灰色の髪の毛は、頭の高い位置でお団子にされている。
 とってきたよ、とぼくは小箱を魔女にわたす。魔女は小箱のふたをちょっと開けて、顎を引いて薄目になって中を見る。それからうなずき、小箱を持って奥の部屋へと入って行った。ぼくも靴を脱いで、脱いだ靴をそろえなおして、魔女の後につづく。奥の部屋には大きなガラスのケースが二つある。一つのケースのなかには、たくさんのアザレアの葉と幼虫たち。そのなかに、魔女はぼくが持ってきた幼虫たちをぶちまける。ぽろぽろぱらぱら幼虫が、ケースの中にふりそそぐ。ケースの中で幼虫が幼虫にぶつかって、葉っぱから落ちたり、わけがわからず右往左往したりする。箱にこびりついた残りの幼虫も、魔女は箱の底を指で叩いてぜんぶ落とす。魔女の指先と爪は青い色をしている。手のひらや指の関節にある皺の部分はひときわ濃い青色で、地図のうえの水脈みたいだ。
 もう一つのケースの中には、すっかり成虫になったそれがいる。こちらもびっしり。成虫になったそれは、短くてふとい触覚にちいさな翅をつけていて、もうみどり色はしていない。それのからだは真っ黒で、光の角度によって瑠璃色にかがやく。せわしなく蠢くそれらは、ケースの中できらきらと瑠璃色を反射させている。
 きれい、とつぶやくぼくを尻目に、魔女はさっさと立ちあがり、またどこかへ行ってしまう。ぼくはしばらくそのまんま、きらきらをぼんやり眺めている。そのきらきらは、星とも宝石ともちがう。そういうまっすぐなかがやきじゃなくて、複雑な色味の金属だとか、海に流れた重油とか、そういうふかい色のひかりだ。どちらかといえば、ぬらぬら、てらてら、にちかい。でもまちがいなくかがやいている。ぬらぬら、てらてら、にかぎりなくちかい、でもまごうことなききらきらなのだ。
 やがて魔女がぼくのところにもどってくる。小さな紙袋をわたしてくれる。ありがとうございます、とぼくは言う。魔女はちょっとだけ笑う。笑った拍子に銀色の差し歯がちらっと見える。魔女の差し歯のかがやきも、ふかい種類のかがやきだ。紙袋の中にはハンカチが入っている。
 家までの帰り道、ぼくは自分のシャツの裾に幼虫がくっついているのを見つける。信号待ちのあいだに、ぼくはそいつをつまみあげる。玉子の黄味のような頭部がうようよと揺れる。信号が青に変わる。ぼくは親指と人差し指で、幼虫のからだを圧しつぶす。ぷちりともいわず、幼虫はうごかなくなる。歩きながら、親指と人差し指をすり合わせるようにして幼虫の死骸をこすり落とす。死骸が指からはなれても、指のさきについた茶色い体液の色はとれなかった。
 魔女の作業を一度だけ見たことがある。大きな鍋にぐらぐらと、魔女はそれらを煮つめていく。それらは最初はうぞうぞと鍋のなかを蠢くけれど、漬けこまれた汁の中でじょじょに動かなくなっていく。ゆっくり弱火で煮つめていくと、最初は透明だった汁にそれらの色が溶けていく。それらの色が溶けていくのか、それらが溶けているのか、だんだんわからなくなる。あまい、蜜のようなにおいが立ってくる。やがて鍋の中はとろっとした、真っ黒の汁になる。光の角度によって、汁は瑠璃色にかがやく。ときどきそれらの輪郭が、あっちこっちでかがやきの間に浮かびあがる。小一時間ほど煮つめたら、布を張った別の寸胴に濾しとる。布のうえにはそれらの死骸が山になる。あれだけ煮られて色を溶かされてなお、それらは黒い。でももうほとんどかがやきはない。光をはね返さない、ただの黒になっている。魔女は布をゆっくり持げ、四隅をあわせ、汁が出きってしまうのをじっと待つ。あわてないのが肝心だ。ここであわてて絞ってしまうと、それらのからだから出た体液で、色が濁ってしまうのだという。「なかみのきたない色じゃなく、そとみのきれいな色だけほしい」から。もうぽつぽつとしか汁が垂れなくなってから、魔女は布を寸胴のうえから外す。それからその汁に、ざらめのようなものをざばざば入れる。それで汁は完成だ。あとは冷めるのを待って、汁に好きな布を浸せば、布は鮮やかな瑠璃色に染まるのだ。
 夕飯のあとで、母さんに紙袋をわたす。母さんは、まあ、とおおげさに驚いた顔をする。お誕生日おめでとう、とぼくは言う。紙袋から瑠璃色のハンカチを取りだした母さんはもう一度、まあ、と言う。なんてきれいな色でしょう。それからぼくを抱き寄せる。見えないけれど、背後で父さんもにこにこしているのがわかる。母さんはぼくの頭にキスをしながら、どうもありがとう、ずっと大切にするわ、と言う。ほんとうにきれいな色、それになんだかとてもいいにおいがするわ。母さんはハンカチに頬ずりをしながら、夢心地でつぶやく。ぼくは母さんのやわらかい胸に抱かれながら、自分の親指と人差し指をそっと鼻先へもってくる。手を洗っても落ちなかった指先の染みからは、ハンカチと同じにおいがする。