ごじゃはげ

日記と雑記とみじかい創作

Look if you like, but......(『アウレリャーノがやってくる』)

高橋文樹さんとはじめてお会いしたときの第一印象は「体幹がつよそう」というもので、はじめて著書を読んだときの感想は「小説がめちゃくちゃうまい」だった。そのとき読んだのは『いい曲だけど名前は知らない』という本で、破滅派から電子書籍で発売された短編集だった。発売になったころ、ちょうど私は破滅派に参加するようになっていて、せっかくだから主催者である高橋さんの著作を読んでみようと思い何の気なしに購入した。タイトルがレイモンド・カーヴァ―みたいでかっこいい、と思ったのもある。
それで何の気なしに購入したそれを何の気なしに読んだのだけど、読んでから後悔した。おもしろくなかったからではなくて、おもしろかったから。おもしろかっただけではなくて、めちゃくちゃうまかったから。こんなにめちゃくちゃうまい人でも本が出ないのか……と、小説を書いている身としては心が折れそうになった。というかすこし折れました。小説投稿サイトの主催者が投稿者の心を折ってくるスタイル、破滅派。

今回読んだ『アウレリャーノがやってくる』は第39回新潮新人賞受賞作を単行本化したもので、著者みずからが出版社をつくり出版したということでも話題となり、できたばかりの版元の一冊目の本にもかかわらず発売前重版という事態となった。さらっと書いてしまったけどすごいことです。
表題作でもある『アウレリャーノがやってくる』は美しい青年アマネヒトが上京し、代理詩人を志して文芸集団「破滅派」に加入して、その面々とかかわっていくことで成長していく物語。収録作の『フェイタル・コネクション』はアルコール依存症の男とルームシェアをする主人公を描いた、著者自身の経験をもとにしたほぼ私小説のような雰囲気の作品。最後の『著者自身による高橋文樹』は著者自身による著者の来歴やなぜ本が出なかったかの経緯などとともに、後半部分ではほとんどラブレターのような山谷感人氏(上記アルコール依存症の男のモデルとなった人物)への激励が記されている。

以上の三作を読み、思いだした言葉がある。

Look if you like, but you will have to leap.

大江健三郎の小説『見るまえに跳べ』に出てくる言葉で、直訳すれば「見たければ見ればいい、でもあなたは跳ばなくてはならない」という感じだろうか。この言葉を思いだしたのは、表題作『アウレリャーノがやってくる』が、収録されている『フェイタル・コネクション』が、解説『彼自身による高橋文樹』が、一貫して、こちらへむかって「跳べ!」と訴えているように感じたからだ。「跳べ!」とこの本は主人公アマネヒトに向けて、やがてくるアウレリャーノに向けて、カントこと山谷感人氏に向けて、それから読んだ我々に向けて叫んでいる本だと思った。ちなみに『見るまえに跳べ』もまた、アウレリャーノがやってくる話であるといえる。こちらの小説の主人公は、終幕において自身の心境をこのように語る。

ぼくはおびえきって、決して飛ぶ決意をできそうになかった。そして結局、二十一年のあいだぼくはいちども跳んだことがないとぼくは考えた。これからも決して跳ぶことはないだろう。(大江健三郎『見るまえに跳べ』(新潮社文庫))

これとくらべてというわけではないけれど、『アウレリャーノがやってくる』のラストは見事だった。ここにはあえて書かないが、読んでたしかめてみてほしい。
『アウレリャーノがやってくる』のアマネヒトには遁走癖がある。彼は事あるごとに、さまざまな場面で遁走する。高校から、モデルの仕事から、パソコン技術の習得から。『フェイタル・コネクション』のカントは小説を書かない。ネットゲームの大貧民にはまり、酒に溺れ、同居人に甘え、小説を書くことができない。跳ぶことができない者たちを描きながら、この本からは跳べという声がつねに聞こえつづける。呪いのように、愛の言葉のように。
二十年間書き続け、みずから会社を興し自作を出版した高橋文樹というひとは跳んだ側の人間だろう。”むこう側”で、体幹のつよそうな男がこちらを見ている。男は言うのだ。俺は跳んだぞ、おまえはどうする? 

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見たければ見ていればいい、でも私たちは跳ばなくてはならない。